ザ・ブリッジ / トニーマグナソン・エクストリーム

by Kurt Hurley

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80年代中期から後期にかけ、スケートボード界はそれまでとは違う物の捉え方をする方向へと向かい始めます。ランプの登場がスケートボード界に革命を起こしたように、この80年代に起きたエボリューションは、スケートボードを更に人々の身近に置いただけでなく、メインストリームのメディア、そしてより多くの人達がスケートボードを手にするようになった改革で、このムーブメントに関わったリーダー達はスケートボードの未来を作ったのです。

メジャーなスケートボード会社は、ボードに乗った事すらない投資家が所有してるのが現状の中、トニーマグナソンを始め、ワールドインダストリーズ、ブラインド&ニューディールなど、スケートボーダー自身が所有し経営する小さな会社などから成り立つグループが、業界の方向を変えるとはトニーら自身、夢にも思わなかった事である。 この革命はDIY(Do It Yourself/ 自分で出来る事は自分でやろう)Shut up and skate (ぐだぐだ言ってる暇があるならスケートしよう)をバックボーンに持つ物であり、高価なスケートパークや自家製ランプを作るのにかかる$1000など要らない。必要なのはボードだけで、それさえあればなんでも出来るというのが彼らのポリシーです。今回この辺の事をトニー・マグナソンにインタビューしました。

Interview by Kurt Hurley

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KH:トニー、あなたはアメリカに来た頃はまったくの無名でした。どのようにキャリアをつけましたか?又、誰かに影響を受けたりしましたか?

TM:俺はスウェーデンのストックホルム出身さ。スウェーデンのスケートシーンはアメリカのシーンが注目され始めた直後からスタートし、1976年に初めてのスケートボードを手にした俺と当時の仲間達は、ドッグタウンの連中を注意深く観察してた。当時、スウェーデンでもスケートボードが大ブームになり、モダンな室内スケートボードパークも建設され、週末にはデモンストレーションなどが行われるようになり、俺もそれらに参加する事により腕を上げたんだ、、、少なくとも自分ではそう思ってるけど、、。その頃知り合ったのが才能豊かな Per Viking というスケーターで、彼には本当に沢山の影響を受けた。パーは決して人には好かれる人物ではなかったけど、彼との出会がなければプロになったり、カリフォルニアに来る事すらなかっただろうね。俺たちはライバルだったが残念ながら彼は90年代に薬物死してしまったけどね。

KH:何がきっかけでカリフォルニアに?

TM:80年代前半、アメリカのスケートブームが去ったと同時にスウェーデンのブームも終わったんだ。俺はそれでもスケートボードがやりたくて、当時、自分にあった選択枝が、地元に大学へ行く、南カリフォルニアへ行く、のどちらかで、当然、俺はカリフォルニアへ行く事を選んだのさ。親は喜んでなかったけど。

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KH:カリフォルニアでの生活にはすぐに慣れましたか?

TM:当時の俺は英語も喋られなかったし、スポンサーもいなかったので、金もなかった。生きていくのは大変だった。ビーチで仲良くなったヒッピー達に車の運転を教わり、ヒンズー寺院など、安く(もしくはただで)飯が食えるところなどを教えてもらい、責任もなく自由だったが、必死で毎日を生き抜いた。スケートボードに関して言えば、スウェーデンではランプしか乗った事がなく、プールでのライディングは苦戦したね。

KH:最初のスポンサーは?

TM:Variflex/ヴァリフレックスだね。デニス・マルティネスに紹介されたんだけど、当時 Variflex のメイン・ライダーはエディー・エル・ガトーで、エディーは当時のトニーホーク的なライダーだったから、とにかく嬉しかった。そこからアンクル・ウィグリー・スケートボーズのファースト・プロライダーになった。ギャラを貰えたオフィシャルなスポンサーで一番最初はトラッカー・トラックスさ。同時期にキャスターとトム・イノウエのスポンサーも1ヶ月だけど受けた記憶がある。

KH:アンクル:ウィグリーについて話していただけますか?

TM:アンクル・ウィグリーは工学を習ってたダグ・リング(元はポール・シュミット)と友達で形成されていて、ポールもダグにはかなり影響を受けたんじゃないかな。俺もダグから材の事や、制作過程の事などの多くを学び、ギャラも貰ってた。ダグのところにいた頃に、後の Hell Concave Board / 地獄のコンケイブ・デッキ にあるプロトタイプも作ったんだ

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KH:それは何年の事ですか?そしてその後、何が起きたのですか?

TM:1984年~1985年、トラッカーからギャラを貰い、カナダのバンクーバーで開催されたコンテストに出た。これは80年代後半に行われた一番大きなコンテストで、俺たちは何千人もの観客の前でデモンストレーションをしたんだけど、なんといっても当時、トニー・ホーク、クリスチャン・ホソイ、キャベィー達のライバル意識の高さには俺を含め、観客もそうとう魅了されていて、特に彼ら3人にはカリスマ性があり、スケートボードとは何かを知っていたと思う。これは80年代後期に活躍した全てのライダー達にも言える事かもしれないけど。とにかくそんな連中の中にスウェーデンから来た俺が対等で居る事はとても大変だったけど、刺激的な時期でもあった事は間違いない。

KH:アンクル・ウィグリーは会社としてはどういう状況だったのですか?

TM:スケートボードがポピュラーになればなるほど、全てのボードを手作りで行っていたアンクル・ウィグリーは俺の要望に対応することが出来なくなり、もっと他にやりたい事が沢山あったし、チームを大きくして行きたかった。まあ、元々アンクル・ウィグリーという名前も好きじゃなかったしね。

KH:どこか別のところへ行きたくなった?

TM:Sure-grip という会社がマグナソン・デザインズという会社を立ち上げたので、そこからスポンサーを受けるようになった。何度も言うけど、俺は既に「Hell Concave / 地獄のコンケイブ」を完成させており、チームそして理想の会社を追い求めていた。

KH:その後どうするつもりでしたか?

TM:その後は、ヴェサリアで開催された第一回目のスケートボード・キャンプで、走行禁止だった所をスケートしてた時にマイク・ターナスキーと会い、長い時間話し込んだ。マイクに俺の構想を話したし、現状の業界の矛盾点も彼にぶちまけた。マイクはそれらを理解してくれただけでなく、新しいアイディアもくれた。俺たちは友達になり、その後ビジネス・パートナーに成った。そしてトレードショーから動き出した。

KH:Sure-grip はこの企画に乗ってきましたか?

TM:ノー。彼らはチームを作るとか、そういう事には一切興味がなかったので、俺たちは別のスポンサーを探したよ。

KH:これが H-Street の原点ですね?

TM:そう。ジョージ・ハマドは俺たちの構想を理解してくれて、資金の援助を引き受けてくれた。彼の不得意な分野は俺とマイクの得意分野だったので全てがうまくハマった。もう一人、デイブ・アンドレッチはセールス部分とオフィス業務で俺たちを助けてくれた。デイブは素晴らしいスケーターである同時に素晴らしいセールスマンだった。

KH:H-Streetという名前はどこから出てきたのですか?

TM:昔よくスケートボードしてたサンディエゴの街に実在する通りで、マーケティングに良い楽しくてパワフルな名前だと思ってね。それからこの名前は、誰でも持ってるホーム・グラウンドを象徴してるんだ。ランプやパークなんて無くても、どんなキッズにもお気に入りの H-Street があるのさ。

CW2015Fall-theBridge04 Backside air. Photo: Hammeke

KH:H-Streetの誕生とストリートでのムーブメントの誕生を同義的に捉える真意は?

TM:スケートボードは裏庭に作った巨大な手作りランプなどのおかげで一気に火がついた。それらは金持ちが金儲けの為に作ったんじゃなくて、一般人が、自分達が楽しむ為に作ったんだ。しかし、ハーフパイプやランプを作るには材料代がかかる、それまでは無料の市街地や歩道でスケートしていたキッズ達は、より安いクオーター(四分の一)ランプを作り始めた。俺も「金」を払ってスケートをする意味が理解できなかったので、共感した。豪華なパークなど無くとも、ストリートでも十分楽しめるはずと信じていた。その後、俺達 H-Street に共感してくれたスケートボーダー、ライター、写真家達から「あの時、H-Streetのしていた事にインスパイアされたんだ」と声をかけてもらえて、俺とマイクの二人でも、これだけの影響力を作れた事に自分達でも驚きだった。自分達の情熱を信じ、大手企業なんて Fuck You! な姿勢で突き進んだ。感化してくれた人達には報われたよ。

KH:このムーブメントは、これまでの方向と逆方向に進むもので、スケートボード界にとっては大きな方向転換でした

TM:確かにそう。1985年~1992年の間にスケートボード界は大きな変革をした。この頃、オーストラリアとヨーロッパでも大きな革命が起きた。ストリートスケートはいつの時代にも一番コマーシャルである事に間違いない。スケートパークもポピュラーに成ってきているし、ロングボードのダウンヒルも同じくらいポピュラーだね。

KH:どうやってH-Streetのチームを作り上げたのですか?

TM:マイクがヴィサリアでのスケートボード・キャンプの創立者であるボビー・グッズビーと仲が良かったので、そこで将来有望な若い選手を世間が知る前にリクルートできた。だから H-Street はスケートボードキャンプから生まれたと言っても過言じゃない。サンディエゴの北東にある Vista という町には将来有望なライダーが沢山いたよ。Matt Hensley と Danny Way などもヴィスタの出身さ。

KH:ストリート・スケートがメインストリームに成ったのはいつ頃だと解釈していますか?

TM:ストリート・スケートはどこかで誰かがやってただろうから、ズバリいつというのは難しいけど、強いて言えば1986年にオーシャンサイドで開催されたコンテストからだと言えるかもしれない。

KH:ストリート・スケートの話になると、マット・ヘンスリーを語り始める人を多く見受けますが。

TM:マットは本当にユニークなスタイルを持ってたからね。しかもテクニシャンだった。大掛かりな技はしなかったけど、とにかく動きがスムーズで、彼から目を離す事が出来なかった。少しミステリアスなのも彼の魅力だね。

KH:ダニーはどうですか?

TM:ダニーは兎に角、何処でも、何ででもスケートしていたね。今でも限界を伸ばしてる。スケートボード界のATV(4輪バギー)だよ。

KH:その他の H-Street のライダーは?

TM:一番最初は John Schultes と John Sonner。続いて、Ron Allen、Danny Way と Matt Hensley。彼らに続いた次世代のライダー達が Sal Barbier、Mike Carroll、Jason Rogers Alphonzo Rawls、Colby Carter、Eric Koston、Chad Vogtなどの素晴らしいスケーター達さ。

KH:Shackle Me Not やHokus Pokusは誰でも一度は見た事のあるスケートボード・ビデオですね。

TM:そうだね、Shackle Me Not はストリート・スケートボーディングの原点な気がする。あのビデオに関しては当時もう少しでビジネス・パートナーになりかけた金持ちなやつに感謝しないといけないな。結果として奴は H-Street の名前を気に入らず、一緒にビジネスをする事が無かった。でも今考えるとそれで良かったと思う。しかし、どんどん先に進んで行くスケートボード界なのに、20年以上も前のビデオ映像が今も話題に登るとは夢にも思わなかったよ。映画ドッグタウンが出た事で70年代~80年代に起きた事を皆んなが知り、そのムーブメントの一部に自分が慣れたのなら、それはとても光栄な事だし感謝するよ。

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この記事はConcreteWave Fall 2015 The Bridge H-Street and Tony Magnusson の抄訳です。